【年末考え事シリーズ】「信じること」

漸くお仕事も落ち着き、考え事ができるようになりました。
なんで自分を見つめなおしてみたいと思います。
というわけで自分の考え方を3つに分けてみるとしましょう。
「信じること」「大切にしたいこと」「反省」
あんまりMECEでないんだけど、致し方ない。


というわけで信じること。
僕はどうやら基本的に目に見えるものしか信じないようです。
やたらfact baseなことにこだわります。なぜだろう。感じ悪い。
ネットの噂とか、スポーツ新聞とか事実が適当なものはまずもって信じない。カンボジア旅行した時に買った地球の歩き方すらも信用しなかった。地図くらいかな。情報は現地調達が原則。なんだかんだ目に見える範囲でなんとかすることができるものなのです。余計な情報は足かせ。
人に対してもそうです。目に見えない相手の感情って信じにくいことがあります。メールだけとかで親友になったりはしないでしょう。たしかにメール貰ってやりとりしてて楽しいし嬉しいけど人間関係の中で言えば+要素にはなるけど絶対的なものではないと思ってます。500文字のメールよりあったときに最初に交わした挨拶のほうが情報量は多いもの。そもそもメールとか電話って肝心な時にあんまりいい思い出を残さないんだよね。不安。大切なことは会って話したい。目が語ることも空気が語ることも全部含めて会話になります。対面で接しあうことの重要さ、これは今年特に実感したことだったと思う。プライベートでも仕事でも。気持ちの伝え方って重要。
ただ一つの例外は人に対する信頼です。例えこれまであったことない人でも、僕はほとんどの場合無条件に人を信頼します。信用してうまく行けばいいのだけどうまくいかないこともあるでしょう。そういう場合は期待してみたりします。それでもダメならあきらめます。
のっけから信用できない人という分類をしない、ということをこれからも心がけていこうと思います。だっていやじゃん、話してて壁を感じるのってさ。だからじぶんでも壁を作らないようにしたいと思っているわけです。


宗教とかそういう信じる道ってのもこのトピックだね。
宗教に関して言えばキリスト教イスラム教が苦手です。いいじゃん、そこまでしなくても、と言いたくなってしまう。神道が一番好きな宗教です。理由は頼りたい時に頼れるから。必要の無い時には一切頼らなくていいから。何の強制もないから生活と宗教のバランスを自分のペースで取ることができるし。
神道といえば今年は発見がありました。
今年の1月に和歌山の熊野速玉大社に行った時、参拝記録を残してきました。したらいろいろなものをうちに送ってくるようになりました。最初にきたのはお願い事を書く紙五枚組とお清めグッズ。紙に名前と生年月日を書いて息を吹きかけてください、と。それを返信用封筒にいれて送れば完了。けがれをとることが出来ます。事務的で簡素ですばらしく神々しい。だってその紙、人形(ひとがた)とよばれる形に切り抜いてある和紙なんだもの。速玉大社は世界遺産、日本の文化遺産の保護になんかしら協力したい、と常日頃考えている僕はそのときに500円ほど寄付しました。そしたらお札とかおとその素だとかどんどん送ってきてなんだか申し訳ない気持ちです。
キリスト教イスラム教にはなにか信者に対して強制するものがあるように感じる。祈りなさい、信じなさい、神に感謝しなさい、、、云々と。
言われなくてもします。信じたいときに信じます。信じてばかりいたら生活がまわらない、ってこともあるんです。やりたい時、できるときにやりますから。といいたくなる。
やりたければやれば?いやならいいよ、別に。という精神を神道から感じるのです。包容力みたいなものを感じます。実は具体的な神がいないってのもポイントかもね。Fuzzyでeasyな部分を感じるのも共感できるかも。身近な宗教である神道について理解が深まったのはちょっとした喜びでもありました。


最後に信条としてあるもの。
それは「勇気のある人になりたい」というもの。もっとも感動した言葉のなかにうちのひいおじいちゃんの言葉があります。時は1944年、大学で国際法の教授をしていたひいおじいちゃんが学徒出陣を間近に控えた学生に対していった言葉。
「戦場で死ぬことは美徳ではない。捕虜になることは恥ずかしいことではない。捕虜は国際法で保護されているから殺されたり虐待されたりすることはありません。捕虜になって生きてまたここに帰ってきなさい。」
かっこよすぎ。
言論が厳しく統制されていた当時こんなことを公衆の面前で言うことができる人はそうそういなかったんじゃないかな、と。ともすれば教授、という立場を失う可能性だってあったわけです。信じるものに対して、自信を持って、勇気をもって人を導く、そんな人になりたい。結局多くの生徒は戻らなかったし、悲しい結末に終わったことは周知の通りだけどできることをした、ということは充分立派なことなんです。彼の名前を一文字貰った以上、すこしでも追いつきたいという気持ちが強いのです。
「自分のできることを精一杯やる、」ということ。社会を形成している人間である以上これはやるべきことなんだろうと思っています。


どこまで信じるものに近づけるかわからないけど信じるだけ信じときます。
そして死ぬ前にちょっとでも形に出来ていたらいいな、なんて思ってます。