同じ屋根の下

最近風邪だのお仕事だので思うように会いたい人に会えていないことが多く、いろんな人に会う夢を見てしまう始末。でも夢の中で次々と会いたい人たちが出てきてなかなか充実した時間を過ごしていたりしてハッピーでちょっと満足。人間なかなかうまく出来ている。
そんな夢からなぜか朝の5時頃目がさめてぽつんと独り。いくらいい夢でも現実にはかなわないもんだ。目がさめて寂しいという状態は何とか変えていきたいものだ。とはいえまだ5時。今日は休みだし未だ早いしもう一度寝よう、と2度寝を試みた。布団の中でもぞもぞしたり、おもむろにテレビをつけてはやおき老人用の皇室特集をみたりしながらなおも寝付けずにいるとだんだん静けさに耳が慣れてきて外から「しんしん」と音が聞こえてきた。
なんだろう?と思って外に目をやると屋根の上にうっすら白い粉のような物が乗っかっている。ああ、雪だな、予報より早く降り始めたんだな、と思い、外をよくよくみてみればなかなか沢山雪が降っている。
こうなると人間またまた自分勝手なもので、「雪なのに出かけなきゃいけないのかぁ…」と考えてしまい、折角人に会う予定を満載にしているにもかかわらずでるのがおっくうになってしまう。こういう事考えちゃうからうまいこと予定をやりくりできなかったりするんだろうな。
anyway
今日は同窓会2本立て。
ゼミのOB会と小学校の同窓会。どちらも昼すぎからだから悩みに悩んだ末、昼の部はゼミ、夜の部は小学校とわけて参加することにした。
ちなみにこれがその内容。
ゼミOB会
14時〜
・現役生の論文発表
・某社のプロ野球団運営についてのプレゼン
証券アナリストの業務と株式についてのプレゼン
18時〜
・飲み会その1
20時〜
・飲み会その2


小学校同窓会
15時半〜
・新体育館で遊ぶ!
18時半〜
・飲み会


去年はゼミの飲み会からのみ参加で来年は論文の発表に来なさい、とくぎをさされていたのでやむをえずよろこんでお昼から参加!。小学校の体育館で遊ぶ、という粋な計画にかなり後ろ髪を引かれる思いではあったものの致し方ない。
論文発表もプレゼンも、普段ほとんど頭を使わない仕事をしているのでいい刺激になりました。「ああ、こんな考え方もあったなぁ」、とか、「こういう仕事の仕方もあるんだなぁ」、とか、「こういう見方もあるんだなぁ」、とか。果たして自分はまともな社会人3年目なんだろうか、とはた疑問に思ってしまうくらい皆さんしっかりされてました。すごいな。がんばろっと。いつかプレゼンできるような人生を歩まねばならない。お世話になった人たちのためにもそういう恩返しができればなぁ。


そして雪の中六本木へ。小学校の同窓会へ合流。18時半からと聞いていたのでやや早めに行ったものの迷ってしまい、結局到着は19時ごろ。とはいえほぼ全員遅刻のゆるーい感じがまたよいところ。小学校の同級生のうち半数+先生が集る、というなかなかの団結力。高校で卒業生全員が参加可能なパーティーを開催したときもそうだったけど、12期くらい卒業生がいる中で我々の学年が最も参加率が高かったらしい。団結力のなかでほかほかと育ってきたんですね、私。
何気にこの年になると小学校の友達がどんどん結婚していく。もう5人くらい結婚したのかな?だから結婚式とかでわりと会っているのであんまりお久しぶり感のない我々。そんななかでなんと!!前々から聞いてたけど1人子連れで来てましたよ。ちょーかわいい。そしてそいつがとっても大人に見えた。飲みの席に2ヶ月の子供を連れてくる親は良いか悪いかはさておきプチ尊敬。抱っこさせてもらい、よしよししながら自分が癒され、「あ〜はやく子供が欲しいもんだ」と思ってにやにやしてたら「あ〜、子供欲しいと思ったでしょ〜」と他の人に言われた。そんなに顔に出てたのか?まぁいいとしよう、正しいから。
ただでさえ子供は愛しいのに、愛しい人と自分の間に出来た子供は心底可愛いことだろう。恥ずかしい表現ですが「愛の結晶」であると思う。そして自分もそうだと思いたい。まだ想像のつかない世界だな。


ともあれ、同窓会、ちょっとフシギで面白い空間だと思う。


ちょっと話はずれるけど、会社に入った時こんなことを考えた。
「人間同士の理解を深めるには同じものにたいしての考えを共有する時間を増やすことが必要だ」
要するに人間同士分かり合うには同じものみて考えることが必要だ、ということ。あたりまえっちゃあそうなんだけどね。会社に入る前に知り合っていた人たちは多かれ少なかれ同じような境遇で生まれ育った人が多かったので大体想像のつく範囲の違いしかなかった。だからそんなに違和感はなかったんろう。なんで違和感が無かったのかといえば、それはお互いわりと大まかにだけど理解しあっていた部分が多かったんだろうな、と思う。
たとえば。
ある同じ対象物に対してどう思うかを2人の人がお互い言いあったとする。
・Aさんは校庭のケヤキの木を見て「じゃまだ」と思った。
・Bさんは校庭のケヤキの木を見て「いいもんだ」と思った。
この場合AさんとBさんは違う考えをもっており、共感したり仲良くなれるとは思えない。でも、その場で同じ「けやきの木」という対象物をにたいしてどう思うかを議論しているのだから、相手が何を考えているのかを実例をもって理解することができる。こんな風に同じ時間を共有し、同じものをみて一緒になって考えることがお互いの理解をより深めていくことになるんじゃないかな。
これって働き始めてから意識したとても印象的なことのうちの一つだった。会社に入るまでは感じることの無かった違和感。なにか理解しあえない特異な常識の存在を感じたりした。でもってそんな人たちと話して話して同じ経験、共有する部分を増やしていくことでお互い理解を深めていったような気がする。共感は出来なくても理解はしている、そんな状態にしたくて。逆に言えばもっとより多くの人と理解しあうことができるんだなぁ、と思ったりもした。
小学校なら6年間、ゼミなら2年間、同じ空間にいた人たちは同じものを見つづけ、それにたいして一緒に考えたり過ごしたりしたもんだから具体的な実例を沢山共有していてお互いとってもわかりやすい状態になっている。例えどんなに離れている時間が長くてもそんな同窓生のみんなと話しているとすごい会話がスムーズなのを実感する。しゃべる内容も別になんてこと無い内容だったりするんだけどなんだかとても自分の体に溶け込むような感じがするんだよね。好き嫌いとはまた違った次元の良さがあって楽しいです。


というわけでほっとしたひと時。
風邪気味なので最後まではいれなかったけど楽しい一日だったな、うん。
幹事の方々、どうもありがとう。